【英祖の家系図】トンイの息子・思悼世子・イ・サンとのつながりとは?

韓国時代劇豆知識
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韓国時代劇ファンの間で、今も強い人気を誇るドラマ『トンイ』や『イ・サン』。
これらの作品に共通して登場するのが、朝鮮王朝第21代王・英祖(ヨンジョ)です。

「トンイの息子」としての少年時代から、「思悼世子の父」としての苦悩、そして「イ・サンの祖父」としての晩年まで英祖の人生は、王としても、一人の父としても、とてもドラマチックなものでした。

この記事では、英祖の人物像を家系図やドラマ描写を交えてわかりやすく解説します。

トンイとの関係、思悼世子との確執、そして正祖・イ・サンへと続く王朝の流れを通して、英祖という人物の多面的な魅力に迫っていきます。

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英祖(ヨンジョ)とは?朝鮮王朝21代王の人物像

英祖(ヨンジョ/영조)は、朝鮮王朝第21代国王で、1724年から1776年までの52年間にわたって王位にありました。これは朝鮮王朝でも最長クラスの在位期間になります。

父は第19代王・粛宗(スクチョン)、母は側室だった淑嬪・崔氏(スクビン・チェシ)。ドラマ『トンイ』で主人公として描かれた女性で、日本でも「トンイの息子」として英祖の名を知った方も多いかもしれません。

英祖は、その淑嬪・崔氏の子として庶子(側室の子)に生まれました。王位を継ぐには微妙な立場でしたが、兄の景宗の死後に即位し、長い治世の中で国の安定と秩序を築いていくことになります。

トンイの息子

幼少時には「延礽君(ヨニングン)」と呼ばれ、賢く、礼儀正しく育った王子として知られていました。ドラマ『トンイ』では、聡明で母想いの少年として描かれています。

庶子という出自ゆえに王族内での立場は決して安泰とは言えませんでしたが、英祖はその聡明さと努力によって、少しずつ信頼を勝ち取っていったと伝えられています。

英祖の人柄とエピソード

史料では、英祖は勉強熱心で、特に礼節を重んじる人物だったとされています。

namu.wikiでは、若き日の英祖は、自分より年上や身分の高い王族にも非常に丁寧な礼を尽くす姿が印象的だったとされています。当時は庶子として目立たない立場でしたが、誰に対しても礼儀正しく謙虚な態度を貫いたことで、周囲の信頼を集めていったと伝えられています。
参考:영조 – namu.wiki(※韓国語)

一方で、几帳面で気難しい性格でもあり、感情をうまく処理できない場面もあったとされます。のちに息子・思悼世子との確執に発展していくのは、こうした性格の一面とも無関係ではないかもしれません。


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英祖の家系図で見る「トンイ」「思悼世子」「イ・サン」の親子関係

英祖とその家族関係は、韓国時代劇でも繰り返し描かれてきた人気のテーマです。

英祖の家系図

ドラマでたどる、親子三代の人物像

母・淑嬪 崔氏(スクビン チェシ)|『トンイ』

英祖の母・淑嬪 崔氏は、ドラマ『トンイ』で主人公として描かれた人物です。
身分の低い宮女から王の側室にまで昇りつめた女性で、聡明さと誠実さで視聴者の共感を集めました。
英祖にとっては、厳しい宮廷での暮らしの中で唯一心を許せる存在でもあったとされます。

英祖(ヨンジョ)|『トンイ』『秘密の扉』『イ・サン』

ドラマ『トンイ』では純粋で賢い少年・延礽君(ヨニングン)として登場し、母と強い絆を持つ姿が描かれます。
『秘密の扉』では、理想の王を目指すあまり息子を追い詰めてしまう厳格な父として登場し、視聴者の心を揺さぶりました。
さらに『イ・サン』では、晩年の王として、孫・正祖との複雑な関係が描かれます。

思悼世子(サドセジャ)|『秘密の扉』

英祖の息子である思悼世子は、『秘密の扉』で主人公として登場します。
優秀で情熱的な王子でしたが、政治の派閥抗争や父との関係に苦しみ、やがて「米びつ事件」で命を落とすという悲劇的な運命に。
父・英祖との確執は、王子として、そして息子としてのアイデンティティの揺れを象徴しています。

正祖(イ・サン)|『イ・サン』

思悼世子の息子であり、英祖の孫にあたるのが第22代王・正祖です。
ドラマ『イ・サン』では、祖父・英祖に育てられながら、父の死の真相と向き合い、理想の政治を目指す若き君主として描かれます。
祖父からの信頼と厳しさの間で揺れる心情や、思悼世子の息子としての葛藤が、物語の核になっています。

和緩翁主(ファワンオンジュ)|『秘密の扉』

思悼世子の妹である和緩翁主は、『秘密の扉』で冷静で計算高い女性として登場します。
兄・思悼世子と対立する場面も多く、王室内の派閥争いにおいて重要なポジションを担う存在として描かれました。

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英祖の妻・側室・王子たち|家族構成と政治的影響

朝鮮王朝第21代国王・英祖(1694年~1776年)の妻と子供について以下にまとめます。

正室

貞聖王后 徐氏(チョンソンワンフ ソシ)

英祖の最初の正室。1692年生まれで、王族の名門である達城徐氏の出身です。
粛宗の時代に王世子嬪(のちの王の正室候補)として選ばれ、英祖の即位にともなって王妃となりました。

穏やかで品のある人物とされますが、子どもには恵まれませんでした。

1757年に死去し、英祖からは深く弔われたと伝えられています。

貞純王后 金氏(チョンスンワンフ キムシ)

貞純王后 金氏は、英祖の2人目の王妃です。英祖が66歳のときに15歳で嫁いできた若い王妃で、2人の年齢差はなんと50歳以上。李氏朝鮮の歴代国王と王妃の中でも、最大級の年の差婚として知られています。

名門・慶州金氏の出身で、聡明で礼儀正しい女性だったとされており、王妃選びの際に「この世で一番深いものは“人の心”です」と答えた逸話は有名です。英祖からの寵愛も深かったものの、子どもは生まれませんでした。

英祖の在位中はあまり政治の前面に立つことはありませんでしたが、その存在は王宮における“静かな品格”の象徴でもありました。

しかし英祖が亡くなると、状況は一変します。王大妃として宮廷に残り、英祖の孫である正祖(イ・サン)と政治的に対立するようになります。正祖の母・恵慶宮 洪氏に冷たく接したことや、一族との間での確執が重なり、正祖との関係は次第に悪化しました。

さらに、正祖の死後に即位した純祖の時代には、大王大妃として「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」=幼い王に代わって政治を取り仕切る立場に就き、実際に3年間にわたって権力を握りました。この間、天主教信者や実学派の学者を弾圧するなど強硬な政策も取られ、「英祖の静かな后」からは想像できないほどの影響力を持つようになります。

側室たち

英祖には4人の側室がいました。

靖嬪 李氏(チョンビン イシ)

英祖がまだ世弟(王位継承者候補)「延礽君(ヨニングン)」であった頃に側室となり、英祖の長男・孝章世子を産んだことで知られます。孝章世子は聡明で、英祖も大きな期待をかけていましたが、わずか9歳で病死。この出来事は英祖にとって深い心の傷となり、その後の王子たちへの接し方にも影響を与えたとされます。

彼女自身も息子の死後まもなく亡くなり、生前の品階は「貴人」でしたが、死後に「靖嬪」の称号を追贈されています。

史料にはあまり多くを残していませんが、最初に王子を産んだ側室として、英祖にとって特別な存在だったことは間違いありません。

暎嬪 李氏(ヨンビン・イシ)

思悼世子(サドセジャ)と和緩翁主の母として、もっとも有名かつ政治的にも影響力があった側室です。

暎嬪の息子・思悼世子は当初世子に立てられましたが、のちに精神的な不安定さや派閥争いの渦中で父・英祖と対立。結果、1762年に「米びつ事件」で処刑されるという悲劇を迎えます。

一方で、娘の和緩翁主は宮中で大きな発言力を持ち、兄である思悼世子と鋭く対立したことで、さらに緊張を高めたとも言われます。

ドラマ『秘密の扉』では、暎嬪は冷静で寡黙な人物として描かれ、母としての葛藤を抱えつつも政治の渦に巻き込まれていく様子が印象的です。

貴人 趙氏(クィイン・チョシ)

英祖の中では比較的記録が少ない側室で、王女(和柔翁主など)をもうけましたが、政治的な発言力や影響力はそれほど大きくなかったとされています。

とはいえ、長く宮中にとどまり、英祖の晩年まで健在だったことから、内命婦(王の側近女性グループ)としては安定した地位を築いていた可能性があります。

史料上の目立ったエピソードは少ないものの、当時の側室の役割として、儒教的秩序や家族の維持に貢献していたと考えられます。

淑儀 文氏(スギ・ムンシ)

英祖の晩年に寵愛された側室で、正史では2人の王女の母とされています。一部では思悼世子の母とされる説も存在しますが、一般的には暎嬪 李氏が母とされています。

彼女は特に政治の前面に出ることはなく、英祖の心の支えとして晩年の宮廷生活を穏やかに過ごしたと見られています。実際、英祖が孤独を感じていた時期に精神的な拠り所であったという記録もあります。

英祖の最晩年(思悼世子の死後)を語るうえで、文氏の存在は意外と重要なポジションにいたと言えるでしょう。

英祖の子どもたち

英祖は正室との間に子供がいなかったため、側室たちが産んだ息子たちが後継者候補となりました。

しかし、長男の早世や次男思悼世子(荘献世子)の悲劇的な死など、家族関係には多くの波乱がありました。

立場子女名備考
正室貞聖王后 徐氏なし
継室貞純王后 金氏なし
側室靖嬪 李氏和億翁主早世
孝章世子 李緈英祖の長男。将来を期待されるも若くして死去
和順翁主
側室暎嬪 李氏和平翁主
和協翁主
思悼世子(荘献世子)李愃正祖の父。米びつ事件で英祖により処刑
和緩翁主政治的に影響力を持ち、兄・思悼世子と対立した
翁主(名前不詳)早世したとされる王女(記録なし)。3人いたと伝わる
側室貴人 趙氏和柔翁主
翁主(名前不詳)早世
側室淑儀 文氏和寧翁主
和吉翁主

英祖と思悼世子の確執|“米びつ事件”に見る父と子のすれ違い

英祖の高すぎる理想と、息子への期待

英祖は、学問と礼節を重んじる理想主義的な性格で知られます。
その一方で、息子である思悼世子(サドセジャ)に対しては厳格で、時に息苦しいほどの期待をかけていました。

思悼世子は、幼い頃は聡明で温厚な人物として育てられますが、成長とともに精神的な不安定さや奇行が見られるようになります。
この異変に対して、英祖は王としてだけでなく、父としても深く苦悩していたと伝えられています。

米びつ事件とは?経緯と背景

1762年、英祖は思悼世子を「米びつ(米櫃)」に閉じ込め、死に至らしめるという決断を下します。
この事件は“暴君の行為”としてだけでなく、「王という立場に縛られた父の悲劇」としても語られます。

英祖の精神的な動揺や、派閥政治(老論派と少論派)との関係も複雑に絡んでおり、単なる親子喧嘩では語れない深い背景があります。

ドラマ『秘密の扉』での描かれ方

この親子関係の悲劇は、ドラマ『秘密の扉』で大きく取り上げられています。
思悼世子を主人公とし、父・英祖とのすれ違いや王宮の陰謀が重厚に描かれ、多くの視聴者の涙を誘いました。

英祖の人物像も「冷酷な王」ではなく、「苦悩しながら決断を下した父」として丁寧に描かれており、史実とドラマの間で多面的に理解が深まるテーマです。

英祖が登場する韓国ドラマ作品

『トンイ』での英祖(延礽君)

幼少期に登場する英祖(延礽君)は、賢く純粋な王子として描かれます。母・トンイとの信頼関係が強調され、物語のなかで印象的な存在となります。

『秘密の扉』での父子の対立

英祖と思悼世子の対立を中心に描くこの作品は、派閥政治と家族愛の狭間で揺れる王の苦悩をリアルに表現しています。

『イ・サン』における晩年の英祖

孫である正祖(イ・サン)の視点で、晩年の英祖が描かれます。威厳のある祖父である一方、過去の選択に葛藤を抱える人間的な姿も見どころです。


英祖の治世と評価|長期政権を支えた“蕩平策”と民政改革

朝鮮王朝最長クラスの在位期間

英祖は52年間という非常に長い間、朝鮮王朝の王として在位しました。
長期政権を維持できた背景には、彼の改革意識と、社会安定への意志が強く関係しています。

蕩平策(とうへいさく)とは?|党争を抑えた中立路線

朝鮮王朝は、政権内の派閥(老論・少論など)の争いが絶えませんでした。
英祖はこれを抑えるために「蕩平策(党派のバランスを取る政策)」を掲げ、特定の派閥に偏らない政治を目指しました。

とはいえ、実際には老論派の影響が強まりすぎて、思悼世子の死にも影を落としたとも言われています。

民政への配慮と社会改革

英祖は租税制度の改革、中下層民の救済、官僚制度の健全化などにも取り組みました。
たとえば:

  • 粥を配るなどの災害時の対応
  • 地方官の不正を取り締まる政策
  • 身分に関係なく能力で登用する姿勢

など、民の声に耳を傾けた“改革型の王”としての側面も見逃せません。

評価は二分されるが…

  • ✅ 「名君」として尊敬される一方で
  • ⚠ 「思悼世子を殺した冷酷な父」としての評価も根強い

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