トンイのチャンヒビン【ドラマと史実の違い】

- チャンヒビンの立場とトンイとの関係は
- ヒビン役を演じた女優
- 実在のチャンヒビンとは?史実における実像
- ヒビンは悪女なのか?かわいそうという声もある
- ヒビンの兄と母は?
チャンヒビンの立場とトンイとの関係は
トンイ(淑嬪崔氏/スクピン・チェシ)とチャン・ヒビン(張禧嬪/チャン・オクチョン)は、韓国時代劇『トンイ』では宿命のライバル。
チャン・ヒビンは「朝鮮三大悪女」の一人とされ、ドラマでは自らの欲望や息子を世子(王位継承者)にするために様々な陰謀を巡らす野心的な女性として描かれています。
主人公であるトンイは賤民出身ながら聡明で正義感が強く、王の信頼を得て側室となり、後に英祖(21代王)の生母となります。彼女はチャン・ヒビンの陰謀に立ち向かい、宮廷の権力争いを乗り越えていきます。
ヒビン役を演じた女優
チャン・ヒビン役を演じた女優はイ・ソヨン(이소연)です。
粛宗の側室から王妃となり、景宗の母となるチャン・ヒビン役を熱演しました。
微笑むヒビン!トンイ
— T-dash (@TadasiOkano) November 16, 2013
でも綺麗です!イ・ソヨン pic.twitter.com/72Y6A1TYud
実在のチャンヒビンとは?史実における実像
史実におけるチャンヒビン(禧嬪張氏、本名:張玉貞 オクチョン)は、中人(両班と庶民の中間の階級)出身であり、父親は訳官(通訳官)を務めていました 。
幼い頃に父を亡くし、家計を助けるために宮廷に入り、荘烈大王大妃(粛宗の曽祖祖母)に仕えました 。その美貌が粛宗の目に留まり、寵愛を受けて側室となり、1688年には王子(後の景宗)を出産しました。
当時、朝鮮王朝では西人(ソイン)派と南人(ナミン)派の激しい党争が続いており、彼女の昇進は南人派の後押しによるものでした。仁顕王后が子をなさなかったこともあり、南人派はチャン・ヒビンを王妃に推挙し、実際に1689年に王妃となります。これにより西人派の権力は一時的に失われ、南人派が政権を握りました。
しかし、南人派の権力拡大を警戒した粛宗は、再び西人派を取り立て、仁顕王后を復位させることでチャン・ヒビンを王妃から「嬪」に降格させます。これがいわゆる「甲戌換局(カプスルファングク)」と呼ばれる政変です。
ヒビンは悪女なのか?かわいそうという声もある
ドラマ「トンイ」でのチャン・ヒビンには、「かわいそう」という声もあります。
ヒビンは、粛宗の寵愛を受けて一時は王妃となりますが、宮廷の激しい権力争いに巻き込まれ、トンイや西人派との対立によって次第に追い詰められていきます。
ドラマでは、彼女が自身や息子の地位を守るために陰謀を巡らせる姿が強調される一方、兄や母親に引っ張られ、後戻りできなくなっていく「悲劇の女性」としての側面も描かれています。
粛宗への愛情や、母として息子を守りたいという思いも本物として表現されており、単なる「悪女」ではなく、権力闘争の中で翻弄される一人の女性としての苦しみや孤独も感じさせます。

ヒビン役を演じたイ・ソヨンさんの演技が気高く華がありましたね。
チャン・ヒビンは朝鮮三大悪女の一人とも言われています。
ヒビンの兄と母は?
ドラマ『トンイ』でのヒビンの兄チャン・ヒジェと母ユン氏は、ヒビンを支えつつも権力欲や陰謀に走り、トンイを執拗に追い詰める悪役的存在です。
終盤ではトンイ暗殺未遂事件に関与し、捕らえられて拷問を受ける場面も描かれています。
兄:張希載(チャン・ヒジェ)の史実は?
張希載(1651-1701)は、朝鮮後期の武臣であり、ヒビンの実兄。1680年に武科に合格し、内禁衛に配属されたことが記録されています。1690年代に妹の王妃昇格に伴い急速に出世し、南人派として権勢を振るっています。妹ヒビンの失脚後、済州島に流罪となり、最終的には斬首刑に処されました。
チャン・ヒビンの母は、坡平尹氏(パピョンユンシ)、(1626年-1698年)です。父の後妻として兄・チャン・ヒジェと娘:チャン・ヒビンがいます
【トンイ】チャンヒビンの死 最後はどうなった? 史実では?
- ヒビンの最後は何話で描かれたか
- ヒビンの息子はどうなったのか
- チャンヒビンの肖像画は存在する?
ヒビンの最後は何話で描かれたか
チャン・ヒビンの最後は、第55話で描かれました。物語のクライマックスとなる重要な場面で、チャン・ヒビンの死によって宮廷の権力闘争の一つの幕が下ります。
- チャン・ヒビンは、仁顕王后(イニョンワンフ)を呪詛した罪によって死罪が決定されます。
- 彼女は賜薬(セヤク)を与えられる刑に処されることになり、トンイに世子(セジャ/息子)のことを託して自ら毒を飲み自害します。
- 粛宗(スクチョン)はチャン・ヒビンの最後の願いを聞き入れ、その死を見届けます。
ヒビンの息子はどうなったのか
母の処刑後、世子は心を閉ざし、クム(後の英祖)を政敵として拒絶するようになりますが、トンイは二人の息子を守るために新たな道を模索します。
チャン・ヒビンの息子は粛宗(スクチョン)との間に生まれた長男で、幼くして世子(王位継承者)に指名され、後に朝鮮王朝第20代国王 景宗(キョンジョン)として即位しました。
景宗は思いやり深く温和な性格で、学問にも励んだと伝えられていますが、病弱だったため在位期間は短く、1720年に即位してからわずか4年後の1724年に亡くなりました。景宗には子がいなかったため、異母弟でトンイ(淑嬪・崔氏)の息子である延礽君(ヨニングン)が次の王、英祖(ヨンジョ)として王位を継ぎました。
チャンヒビンの肖像画は存在する?
チャン・ヒビン(禧嬪張氏)の肖像画は存在していません。
朝鮮王朝時代、国王や一部の高官の肖像画(御真)は宮廷絵師によって制作・保存されましたが、女性、特に側室や王妃の肖像画は原則として残されていませんでした。そのため、チャン・ヒビンの実際の容姿を伝える絵画や公式な肖像は存在しません。
歴史書『朝鮮王朝実録』などには、彼女の美貌についての記述が残っていますが、肖像画など、視覚的に確認できる資料はありません。よって、現代で流通しているチャン・ヒビンのイメージは、すべてドラマや映画、想像画に基づくものです。
史実のチャン・ヒビン ドラマとの違いまとめ
張禧嬪(チャン・ヒビン)|史実プロフィール
- 本名:張玉貞(チャン・オクチョン)
- 生没年:1659年11月3日〜1701年11月9日
- 出身地:朝鮮国 漢城府(現・ソウル特別市恩平区)
- 氏族:仁同張氏
- 父:張炯(1623–1669)
- 母:坡平尹氏(1626–1698)
- 兄:張希載(チャン・ヒジェ/1651–1701、処刑された)
- 夫:第19代王 粛宗(スクチョン)
- 子:景宗(第20代国王)、次男は夭折
- 身分:中人(チュンイン)出身
- 官位・称号:
- 1686年:承恩尚宮として再入宮
- 1688年:昭儀(正二品)→ 景宗を出産
- 1689年:禧嬪(正一品・側室最高位)に昇進
- 1690年:王妃に冊立(在位1690–1694)
- 1694年:嬪に降格(仁顕王后復位による)
- 最期:
- 1701年、呪詛の罪により賜薬(毒薬)で処刑
- 享年42歳
- 埋葬地:京畿道 高陽市 西五陵(大嬪墓)

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