景宗(キョンジョン)は朝鮮王朝第20代国王で、側室・張禧嬪(チャン・ヒビン)の子として生まれ、幼くして王世子に立てられた王です。
病弱な体質と政争に翻弄され、在位わずか4年で短命に終わりました。
家系図をたどると、父・粛宗や異母弟・英祖(ヨンジョ)との関係、王妃・側室との婚姻事情など、景宗の背景がより立体的に見えてきます。
本記事では、景宗の【家系図】や【死因】に関する史実、そして彼が登場する韓国ドラマについて、わかりやすく解説していきます。
景宗(キョンジョン)とはどんな王?|家系図から読み解く“儚き王”の軌跡

景宗(キョンジョン)は、粛宗と張禧嬪の子として側室の子にも関わらず幼くして王世子に立てられましたが、病弱で子を残せず短命に終わりました。その人生は、弟・英祖との確執や“毒殺説”を生むほど、朝鮮王朝の緊張をはらんでいたのです。
王世子から孤独な即位へ──景宗の出自と運命
- 景宗(キョンジョン)は、粛宗の長男として1688年に誕生。母は側室で有名な張禧嬪(チャン・ヒビン)。
- 幼いころから王世子に指名され、異例の早さで王位継承が内定していた。
- しかし母・張禧嬪の処刑(1701年)を境に政治的立場が不安定に。精神的なショックや憂鬱症に悩んだとも。
- 1720年、粛宗の死により即位するも、慢性的な病と孤立により政治主導権を握れず。
- 「病弱・後継ぎなし」という不安が渦巻く中、弟・英祖を支持する老論派との対立が激化。
- そして在位わずか4年、景宗は突然この世を去る。その最期には“毒殺説”まで囁かれた──。
年表でたどる景宗の人生と政争
年(西暦) | 出来事・背景 |
---|---|
1688年 | 粛宗と張禧嬪の子として生まれる。清松沈氏の王妃・仁顕王后とは対立関係にあった側室の子。 |
1689年 | 生後100日足らずで「元子」に冊立される。母・張禧嬪は王妃に昇格。 |
1690年 | 正式に王世子に冊封(満3歳)される。粛宗の寵愛を受け、“皇太子ルート”を順調に進む。 |
1694年 | 母・張禧嬪が王妃から再び側室(嬪)に降格される(甲戌換局)。少論が景宗を支持。 |
1701年 | 張禧嬪、仁顕王后への呪詛罪により粛宗の命で賜薬となり処刑される。景宗の精神的衝撃が大きかったとされる。 |
1717年 | 父・粛宗が病に倒れ、王世子として「代理聴政」を開始。老論と少論の対立が激化。 |
1720年 | 粛宗の崩御により、第20代王として即位(31歳)。病弱により政務は制限され、老論が実権を握る。 |
1721年 | 子がいなかったため、異母弟の延礽君(後の英祖)が「王世弟」に冊封される。 |
1722年 | 辛壬士禍(シニムサファ)勃発。少論が老論を弾劾し、主要人物4名(キム・チャンジプら)が処刑。老論失脚。 |
1724年 | 景宗、病状悪化。蟹醤と柿の食事、そして延礽君の進言による参茶服用の後、急死(享年35歳)。 |
【景宗 家系図】粛宗・張禧嬪の子として生まれた運命

関係 | 名前(読み方) | 備考 |
---|---|---|
祖父 | 顕宗(ヒョンジョン) | 朝鮮王朝第18代国王 |
祖母 | 明聖王后 金氏(ミョンソンワンフ キムシ) | 顕宗の王妃 |
父 | 粛宗(スクチョン) | 朝鮮王朝第19代国王 |
実母 | 禧嬪 張氏(ヒビン チャンシ) | 粛宗の側室、景宗の生母 |
養母(嫡母) | 仁顕王后 閔氏(イニョンワンフ ミンシ) | 粛宗の二番目の王妃、景宗の嫡母 |
本人 | 景宗(キョンジョン) | 朝鮮王朝第20代国王 |
正室 | 端懿王后 沈氏(タニワンフ シムシ) | 最初の妃、景宗即位前に死去、後に王后追贈、子供なし |
継室 | 宣懿王后 魚氏(ソニワンフ オシ) | 二番目の妃、子供なし |
異母弟 | 延礽君(ヨニングン)/英祖(ヨンジョ) | 景宗の異母弟、後の第21代国王、母は淑嬪崔氏 |
異母弟 | 延齢君(ヨルリョングン) | 景宗の異母弟、母は淑嬪朴氏、1719年没 |
景宗の正室(王妃)

景宗には生涯で2人の王妃がいましたが、いずれからも子供は生まれませんでした。
端懿王后沈氏(タニワンフ・シムシ)
- 生没年: 1686年〜1718年(31歳で逝去)
- 父: 青恩府院君 沈浩
- 特記事項: 景宗が王位に就く2年前、まだ世子嬪の時代に亡くなり、景宗の即位後に王后として追贈されました。
- 子女: なし
宣懿王后魚氏(ソニワンフ・オシ)
- 生没年: 1705年〜1730年(26歳で逝去)
- 父: 咸原府院君 魚有亀
- 特記事項: 13歳で継室として嫁ぎ、景宗の死後、少論派と共に延礽君(後の英祖)を排除しようと企てましたが、景宗の急死によりその計画は失敗に終わりました。
- 子女: なし
- 正室・継室ともに子はなく、後継ぎ問題が常に付きまとった
- 側室はなし
景宗の基本プロフィール
項目 | 内容 |
---|---|
名前(諱) | 李昀(イ・ユン) |
即位名 | 景宗(キョンジョン) |
生没年 | 1688年11月20日 ~ 1724年10月11日(満35歳) |
在位期間 | 1720年 ~ 1724年 |
母 | 張禧嬪(チャン・ヒビン) |
弟 | 英祖(ヨンジョ) |
- 実務能力より「病弱・政争の象徴」として語られることが多い
- 清から贈られた“恪恭王”という諡号は、朝鮮国内では敬遠され、公式な記録にもほとんど登場せず。
景宗が登場する韓国ドラマ|描かれ方で見える“人間らしい王”の魅力

ドラマの中で景宗は、長く王世子として期待されながらも病弱で短命だったという史実をもとに、
切なさや人間味を持ったキャラクターとして描かれることが多い王です。
主役ではないものの、王位継承をめぐる兄弟の関係性や母親をめぐる因縁など、物語に深みを与える存在として印象に残る登場をしています。
『トンイ』(2010)|母・張禧嬪とトンイの対立に翻弄される少年王子
景宗役:ユン・チャン
MBCの人気時代劇ドラマ『トンイ』では、少年時代の景宗が登場します。
彼の母・張禧嬪と、トンイ(淑嬪崔氏/英祖の母)との対立は作品の大きな軸となっており、景宗はまさにそのはざまに生まれた王子として描かれます。
王子としての期待と、母をめぐる複雑な感情の間で揺れる姿が、印象に残ります。
『ヘチ 王座への道』(2019)|病弱ながら王として責務を果たす姿
景宗役:ハン・スンヒョン
SBSの『ヘチ』では、即位後の景宗が登場。
体が弱く、自ら政治を動かす力に欠けながらも、王としての務めを果たそうとする真摯な姿が描かれます。
弟・延礽君(後の英祖)との関係性や、政争の板挟みに悩む姿が丁寧に表現され、“権力ではなく責任を背負う王”としての魅力がにじみます。
『テバク~運命の瞬間~』(2016)|王位をめぐる兄弟の緊張
景宗役:ヒョヌ
『テバク』は、粛宗の時代から英祖の時代にかけての物語で、粛宗の忘れられた息子である架空の人物テギル(チャン・グンソク)を中心にフィクション要素を交えて描かれています。
景宗は幼い頃に母(張禧嬪)を失い、その後、朝廷内の激しい権力闘争と党派争いの渦中で世子(王位継承者)として成長します。病弱で物静かな性格として描かれ、時に何事にも無関心なように見える一方、内面には強い意志と葛藤を秘めています。
景宗の死因は病死か毒殺か?|弟・英祖との確執と政争の真相

景宗の死因について、公式には「病死」とされています。
当時の記録には、景宗が最期に食べたものとして蟹醤(カジャン)と柿(カム)が登場します。これらは「相剋(あいこく)」、つまり体に悪い食べ合わせとされており、食後に急激な体調悪化が見られました。
その後、意識を失った景宗に対し、異母弟の延礽君(後の英祖)は参茶(サムチャ)と附子(プジャ)という強い薬の投与を命じたと記録されています。
この一連の流れから、「毒殺説」が当時の人々の間で囁かれるようになりました。
特に英祖の即位後も、「兄を毒殺したのでは」という疑いはくすぶり続け、反体制派によって政治的にも利用されました。※1728年の李麟佐の乱(イ・インジャの乱)
ただし、正史である『景宗実録』には毒殺という記述はなく、公式にはあくまで“病死”とされています。
景宗と英祖の関係
景宗が即位したとき、すでに体が弱く子もいなかったため、朝廷内では後継問題が常に懸念されていました。
その中で老論派(ノロン)は、景宗の異母弟である延礽君(ヨンイングン=後の英祖)を強く推し、「王世弟(世継ぎ)」に立てようと動きます。
これに対して少論派(ソロン)は、景宗を支持し、延礽君の台頭を警戒しました。
結果として、両派閥は「景宗支持」vs「延礽君支持」という対立構造を形成し、政治闘争(辛壬士禍・シニムサファ)に発展します。
景宗の家系図まとめ
景宗(キョンジョン)は、幼くして王世子に指名されたものの、病弱と政争に翻弄され、短い治世の末にこの世を去った朝鮮王朝第20代国王です。
家系図をたどることで、父・粛宗や異母弟・英祖との関係、王妃や側室たちとの縁がより鮮明に見えてきました。
また、病死とされる最期にまつわる毒殺説や、ドラマ『トンイ』『ヘチ 王座への道』『テバク~運命の瞬間~』で描かれた姿からも、景宗の儚くも人間味ある人物像が浮かび上がります。
この記事を通して、景宗の人生と朝鮮王朝の時代背景がより深く理解できたなら幸いです。